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みんなちがってみんないい

自立課題

個別課題と自立課題は良く混同されて使いますが、意味が違います。個別課題と示すときは、その名の通り、子ども一人一人の課題に合わせて個別に大人に教えてもらう学習形態や内容をさしています。初めて取り組む課題や十分に身についていない課題は「個別課題」として、大人が個別に指導をします。そして、ある程度できるようになった課題は「自立課題」として、子どもが一人でできるように進んでいきます。つまり、「個別課題」→「自立課題」という図式です。確かに指導上はこうした流れをとることも多いので間違いではないのですが、コミュニケーション学習の「自立課題」はあり得ないし、集団場面で使うスキルをマンツーマンで教えてもらうことも「個別課題」にはあります。「自立課題」という言葉は「個別課題」とは全く関係なく、自閉症支援として日本に輸入された重要なキーワードなのです。

自閉症の方をはじめとする音声モードの情報処理の弱い人に、音声モードで学習や作業、生活をさせていては、何歳になっても分からないことが多すぎて、依存的になったり拒否的になったりして、結果として自立しようとする芽を摘んでいるのではないかというTEACCHの考え方が1970年頃から世界に広がりはじめました。「構造化」した環境で「自立課題」を取組むことで、ASDの方に「自分でできる」という自信と自尊心を育てることができたという実践が各地で報告され検証されました。「構造化」や「自立課題」と言う言葉は、ASDの方の自信と自尊心のキーワードとなる言葉です。そして2000年代以降もう一つの柱として、「自発のコミュニケーションスキル」が重要と言われています。これも視覚モードを使って自分で伝えるPECSを代表とするので「自分でできる」という目標は同じです。

昨日のブログでも紹介しましたが、強い指示待ちは、ASDの受動タイプの方や、高学年で行動が落ち着いてきた方に時々見受けられます。いつもの日常の生活行動なのに、強く指示して促さないと動けない緊張病(カタトニア)として医学書に紹介される症状です。原因がはっきりわかったわけではないですが、この予防策として、視覚情報モードで自立的に生活していれば、日常の生活行動に促しをかけることも減るので、予防には有効ではないかと考えられます。ただ、だからと言ってしつこく声をかけるとみんなカタトニアになるわけではありません。このことについては別に詳しく述べる機会を作ろうと思います。

敬老の日

今日は、敬老の日。 毎年9月15日を敬老の日としていたものを、2003年(平成15年)から9月の第3月曜日にしました。兵庫県多可郡野間谷村の村長と助役が、お年寄りを大切にし、昔から伝わる知恵を借りて村作りをしようと、昭和22年(1947年)「としよりの日」が決められました。農作業も一段落して敬老会を開くには丁度よい日取りだったようです。これが全国的に広まって、「としより」という言葉の響きが良くないということで、「老人の日」となり、昭和39年(1964年)国民の休日として「敬老の日」が制定されました。

高齢者とは、日本の統計調査では65歳以上と定めています。家族に高齢者がいる世帯は全世帯の4割を超え、その中で高齢者の一人暮らしと夫婦のみの世帯をあわせた数が半分です。病気やけがをしている高齢者は半数、生活に支障をきたすほどの重症の人は2割程です。高齢者の世帯支出は、勤労世帯で月36万、無職世帯は26万ほどが平均支出です。全世代世帯の平均支出月額は29万ですから、若年世帯と同じくらいから経済的に余裕がある範囲に入リます。

65歳から74歳までの人を「前期高齢者」といいます。前期高齢者は、64歳までと変わらず国民健康保険や被用者保険の給付を受けることができます。高年齢者雇用安定法で、本人が希望すれば65歳まで働けるようになったため、定年後も同じ職場で働き続ける人が増えています。これからはさらに現役で活躍する高齢者が増えていきます。また労働人口が減る一方で、前期高齢者に含まれる65歳から69歳までの男性の約半数が働いています。

定年後も自分の居場所を見つけ、自立した生活を送ることが大切だと言われますが、大きなお世話です。高齢者ですらない宙ぶらりんの60歳以降はそう思っています。もう少しで、ゴールだと走り続けてきたら、勝手にゴールテープを後ろに移動された感が強いのです。だったら走る(就労する)前からそう説明してほしいと思ったのは筆者だけでしょうか。昭和30年代生まれの方は、60歳で定年だと言われつつ安い賃金で65歳まで雇用されることになり、寿命が延びているのだからその後も働いて当然だと言われるのは、どうもすっきりしないという人は少なくありません。

文明の進化とともに寿命が伸びることは周知のことです。年金掛け金が収入の2割で、年金月額が生涯平均賃金の5割を支払える釣り合いの取れる答え(年数)はひとつしかありません。「(平均寿命-20)÷1.4=掛け金年数」「掛け金年数+20=支給開始時期」という小学生の算数です。最初からわかっているのこの単純な関係が説明され、「平均寿命が延びたら、掛け金期間と年金支給開始時期がのびる」「年金は長生き保険」とさえ学んでいればこんなに違和感(損した感)はなかったと思います。

国民の8人に1人が後期高齢者といわれています。そして75歳の誕生日から後期高齢者医療制度への加入が義務付けられました。75歳を過ぎると入院や長期療養が多くなり、後期高齢者の約4分の1が要介護認定を受けています。また80歳以上の約8割が経済的な不安を感じず暮らしていて、後期高齢者の半数以上が趣味やレジャーを楽しんでいるそうですが、この人たちは2004年の厚生年金保険料の引き上げ開始前に定年を迎えた方たちです。前と後ではえらい違いだと思うのは筆者だけでしょうか。敬老の日に、敬老されてるのかなぁ。高齢者ではないしなぁ。なんだかなぁという複雑な思いで一日が過ぎていきました。

自粛はご遠慮下さい

熊谷俊人(千葉市長)が以下のツイートをしました。
『養護学校の生徒が水遊びしていることについて「災害の中、不謹慎」との苦情が入りました(その方は停電は発生していない地域にお住い)。 確かに千葉市内を始め、県内が停電・断水な中、不謹慎と思う方もいるかもしれませんが、自粛しても意味がありません。心を寄せて頂いた上で、自粛はご遠慮下さい。13:40 - 2019年9月11日』

風台風の影響を受けて、千葉県は未だに電力や水道が復旧していない地域が少なくありません。みんなで助け合おうという声掛けは大事ですが、災害時の被害が大きければ大きいほど、「みんな」を強調するあまり全体主義の危うさを感じさせる発信が時折見受けられるのも事実です。ただ、正面からその発言を批判するのは「返り討ち」に合う恐怖感があり足踏みをしてしまうのも本音です。市長の勇気ある発言に対して多くの人が共感を寄せました。災害時は社会的弱者への偏見が顕在化します。だからこそ、「みんな」で非常事態の言動には危機管理の観点からも敏感になる必要があります。

「障がい」

熊谷俊人(千葉市長)について昨日コメントしました。支援学校の子どもが水遊びを自粛しても、台風で止まっている電力や水道は復旧しない。意味のない自粛の呼びかけは控えてほしいというものでした。この考えと同じようなツイートが4年前にもありました。


熊谷俊人(千葉市長)
▼「障害者」とは「社会の障害」でも「身体に障害を持つ者」でも無く、「社会との関わりの中で障害に直面している者」という意味であり、私たちはその障害を一つひとつ解消していくことが求められている、と理解しています 。
▼その考えから、私は「障害」を「障がい」と置き換えることには反対です。「障害」という言葉が引っかかるからこそ、それを社会的に解消しなければならないわけで、表現をソフトにすることは決してバリアフリー社会の実現に資するものではありません。2015年5月20日
▼表記を変えるべきとよく言われて、それに対応する時間を本来の障害者行政に割きたいので、表現を変えても意味が無いと申し上げただけです。2015年5月25日

2011年に提出された障害者基本法改正案に「障がい」を盛り込むために、かつての鳩山由紀夫内閣が設けた「障がい者制度改革推進本部」は、差別解消のために表記を「障がい者」とすることを議論しましたが、有識者らからは「『障害』が広く普及している」などの意見が出され、合意には至らず、改正案には盛り込まれませんでした。しかし、この流れからあちこちの自治体で「障がい」表記が増えました。

この流れに一石を投じたのが、先述した熊谷市長のツイートなのです。ポリティカルコレクトネス( political correctness)とは、政治的・社会的に公正・公平・中立的で、なおかつ差別・偏見が含まれていない言葉や用語をさします。看護婦ではなく看護師、保母ではなく保育士、スチュワーデスではなくキャビンアテンダント等です。障害ではなく「障がい」表記の流れもポリコレ運動の一つと言えます。

市長の意見は、今回の自粛発言と同じく、その議論に差別・偏見をなくす効果があるのか?というものでした。ポリコレがどうこうと言う前に、政府として決着を得た話に、ふたたび市役所が時間と税金をかけて「害」か「がい」かと議論していること自体に役所の仕事として意味があるのかと疑問を投げかけています。

 

 

効果のでないスケジュール

放課後等デイサービスでは、絵カードを用いたスケジューリングが行われている事が少なくありません。しかし、これが多くの場合あまり機能していないのではないかと感じています。大人はある程度1日のスケジュールを頭にイメージして行動しています。ASD児にとってのスケジュールの必要性は大人のそれとは違います。ASD児の多くは『突然』だったり『変化』だったりに対処することが苦手です。そして、その不安に押しつぶされそうになりパニックを起こしたり、易刺激性(些細なことですぐに不機嫌になる)を発揮させてしまいます。予めスケジュールを立て、見通しを持ちやすくすることで『突然』や『変化』という『不安』を極力減らしていこうというものがスケジュールです。大切なのは『個別性』。見通しが持てず不安になる子どもへの支援としての『スケジューリング』は必要なのです。

しかし、折角作ったそのスケジュールが機能的に使えていない場合が多いように思います。ただ貼ってあるだけのスケジュール、子どもは毎回同じ繰り返しなので見向きもしていないスケジュールはよく見かけます。スケジュールの目的は、忘れたり漏れを無くす為に用い、円滑に生活を送っていくために必要なものです。放課後等デイや自宅・学校で行うスケジューリングが将来、社会人としてスケジュールを確認し仕事や友人関係を円滑に行っていくことに繋がっていくように取り組むのです。子どもの予定を支配するために、おとなしくしてもらうためにあるのではないのです。スケジュールを機能的に用いるというのは、将来役立つ形で用いるということです。

支援とは日々の工夫があって生きてきます。もちろん、支援作業をルーティン化して効率化することは仕事には欠かせません。だけど、意味のない支援になってしまっては元も子もありません。だから、子ども達への支援は常に、将来にも役立つことをイメージしておく必要があります。自閉症支援では『予防』という考え方を一番重要視する必要があります。かつて「言葉がわからなくても言葉をかけてあげてください」「少し様子を見ましょう」という鉄板のフレーズで地域で暮らせない行動障害の山を作った歴史を忘れてはいけません。子どもたちにとっての予防とは、大人になった時に生活しやすいスキルを身につけておくことであり、保護者の方の心配を極力減らすことです。全ての支援は子どもたちの発達に繋がり、適切な習慣づくりに役立って意味を成します。スケジュールの使い方については間違った使い方があちこちで散見されるので機会を見てまた書きます。