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K-ABCⅡ

WISC-Ⅳは、ウェクスラーという米国の心理学者が1949年に開発し改訂が繰り返されている知能検査の1つです。ウェクスラー式知能検査は世界でも広く使われている知能検査で、受ける人の年齢に合わせて、幼児用…WPPSI、児童用…WISC、成人用…WAISの3つがあります。ここでは対象年齢が学童期のWISCについて紹介します。定期的に改定されており、現在は第4版となるWISC-Ⅳが最新となっています。15の下位検査(基本検査:10、補助検査:5)で構成されており、10の基本検査を実施することで、5つの合成得点(全検査IQ、4つの指標得点)が算出されます。それらの合成得点から、子どもの知的発達の状況をさまざま方向から把握できます。4つの指標得点とは言語理解指標、知覚推理指標、ワーキングメモリー指標、処理速度指標の4つで、それぞれの指標が出るため、得意なこと、不得意なことの判断に役立ちます。

特に情報をどのように入力し、どのように表現するのが向いているかという判断は、勉強法を考えていく上で役立ちます。例えば、知覚推理が弱い子どもには、絵や図で伝えるより言葉にして論理的に伝えたほうが理解しやすいなど、対策を考えることができます。標準化された検査は、検査項目で3ポイント、指標ポイントで15点が「有意な差」(明らかに違いがある)ですから、個人の凸凹を判断するときにはこの開きを見ていきます。

本事業所で採用している検査の一つは、K-ABCⅡです。アメリカの心理学者カウフマン夫妻により(1983)作成されました。カウフマン夫妻はウェクスラー博士のもとでWISCの改訂に協力してきました。妻のナディーン・カウフマンは学習障害をはじめとする発達障害が専門です。夫妻はWISCの課題をKABCで解決しようとしました。子どもの知的能力を、認知処理過程(認知)と知識・技能の習得度(学力)の両面から評価し、得意な方法を見つけ、それを子どもの指導に活かすことを検査の目的としたのです。

K-ABCⅡはカウフマンモデルとCHCモデルという2つの理論モデルに立脚し最新の理論を取り入れたこと、認知処理を、継次(言語的)処理と同時(視覚的)処理だけでなく、学習能力、計画能力の4つの能力から測定していること、が特徴といえます。WISC-Ⅳとの違いは以下の表のとおりです。

WISC-Ⅳには基礎学力を図る検査項目はありません。WISCは医療用として用いられてきた背景があるからです。K-ABCⅡには、習得尺度という基礎学力を図るための尺度があります。これにより、学習がどれだけ定着しているかを知ることができます。K-ABCⅡの検査は、教育を意識して作られているため、WISC-Ⅳよりも学習と結び付けて考えやすい特徴があることも本事業所が採用している理由です。学校や病院ではWISCがほとんど利用されます。KABCは2回に分ける必要があり時間がかかるということが大きな理由だと思います。次回はK-ABCⅡで検査の読み方について考えます。

 

標準化された検査

検査は公的な機関や病院、教育機関などさまざまな場所で活用されます。発達障害の診断では、様々な施設で心理検査を受けることになります。専門家のいる病院やクリニック・発達障害者支援センター・児童相談所・保健センターなどです。また、診断以外でも発達障害の子どもの特徴や性格を細かく知って支援や教育の方針を明確にするために活用されます。そのため学校や放課後等デイサービスなどでも使用されます。逆に、心理検査の報告にあまり関心のない施設があったり職員がいたとすれば、そこは特性に応じた細かな支援については関心がないところかもしれません。

心理検査は子どもの一部分の情報ですから検査の様々な数値が子どもの実態の全てを表すものではありません。数値は低いのに努力した結果、進学校に入学している高校生もいますし、高い数値なのに怠学の結果、進学する学校の選択肢が少ない中学生もいます。心理検査の結果だけで、その人の人生はわからないのです。しかし、心理検査で能力の凸凹があることを知っていれば、子どもに向いた学習の仕方や生活の仕方をあらかじめ考えることができます。何かにつまずいた時も原因が把握しやすくなりますから、傷口が広がらないうちに早く対応できます。子どもに持ち続けてほしいものは高い能力ではありません。自分は失敗しても立ち直れる、その方法は必ず見つけることができるという気持ちが育ってほしいのです。そのためには、失敗しても支援によってリカバリーできた経験や、失敗を予測して別の方法で到達する経験をたくさん積んでほしいのです。そうすれば自分を信じることができるし、支援を信じることができるはずです。

心理検査の流れは、行動の観察・問診として、実際の検査を実施する前に、子どものおおまかな特徴、生育歴や生活環境を把握します。また、本人や両親の困り感、関係者の意見や周囲の環境面についても把握します。そして、報告がどの場所で誰に活用されるのかを判断して検査の種類を選択します。心理検査は1種類のみを実施するのではなく、複数の発達、知能、特性検査を組み合わせて行うことがほとんどです。

検査の種類はいろいろありますが、京都で多用されるのは「新版K式発達検査」です。本来この検査は乳幼児向けの適当な検査がなくて京都児童院(今の児童福祉センター)で開発されたもので、今は成人まで測れます。しかし、標準化(統計的に妥当性があるように作る)されていないのと、子どもの能力を運動・認知・言語の3つに分類され、新しい知能分類(CHC理論)に基づいていないので、何を測定しているのか分かりにくく説明がしにくいのです。それでも、ベテランの検査者にとっては子どもの苦手が推測しやすいということで関西ではよく使われています。

保護者にとってはこの3つの数値を示されても、見る力や言葉の力が進んでいるか遅れているかしかわからず、「一緒に生活したらわかる」程度の数値です。しかし、この検査者の中には「数値が独り歩きするから」と数値を当事者に示さない人がいるそうです。前回も述べましたが、常識で考えれば、検査結果の数値を隠す人の報告を信用できるはずがありません。そんなに自分が行う検査にも説明にも自信がないのならやらなければいいのです。そんな検査に付き合う子どもこそ迷惑です。

K式検査は2001年に改訂されたきり20年近く改訂されていません。知能検査は、10年で陳腐化します。文明の進化と共に子どもの知能全般が伸びるからです。今度予定されている改訂は2020年だそうです。これは標準化された検査になるそうですが、知能の分類は変えないそうです。明日は他の検査について掲載します。

インフォームドコンセント

心理検査の目的を一言で表すとすると、「子どもの障害の程度を把握し、1人ひとりに合った支援を行うため」です。発達障害の中には、自閉症スペクトラム(ASD)、注意欠陥多動症(ADHD)、学習障害(LD)などさまざまな障害があります。しかし、以前のようにアスペルガー症候群や非定型自閉症といった細かい分類をすることは少なくなっています。それは、発達障害では、障害の重なりがあり明確に分けられず、発達の凹凸は子どもそれぞれで異なり、それに伴って障害の特徴も細かく違っているからです。(日本の場合、障害の診断は医師しかできません。)

発達の度合いや知能の程度、各能力の特徴まで検査をすることで、発達障害の子どもの特性をしっかりと把握することができます。同じ障害の診断だとしても、検査の結果により見られる凹凸は一人一人違います。その結果をもとに、どの能力を活かしていくか、どのような支援が必要かを、子どもの特徴に合わせて考えることができます。

心理検査は、当事者か保護者の依頼がなければできません。もちろん、学校や施設は心理検査を行うことで正確な支援内容を考られることなどを保護者に説明して検査を勧めるのは良いことです。しかし、何故検査が必要なのか十分に説明しないまま、「障害の疑い=検査=診断=配慮の理由」という流れ作業のように扱ってしまうと、保護者は検査を子どものふるい分けに感じてしまい、たとえ検査を受けても、障害の証明書を突き付けられたような嫌な気持ちになることがあります。検査を勧めることは、その結果報告に基づいて、現場は全力で支援する約束をしたということです。「勉強ができなかったのは障害の結果」「不適切な行動は障害の結果」と子どもの責任にしないという約束です。

また、一部の地域では検査をしているのに検査結果の報告書を保護者にも当事者にも渡さない検査者がいるそうです。例えば、病院で検査を受けて、医師が病気のあれこれを言うだけで検査結果が当事者に示されなければ、何がどの程度悪い病気なのか患者にはよく分からないまま治療が進めらるのと同じです。今日、十分な情報を得た(伝えられた)上での合意(インフォームドコンセント)は医療に限られたことではありません。報告書がないのも問題ですが、報告書があるのに手渡されないなどという事がまかり通っている地域があるとは、開いた口がふさがりません。おそらく、報告内容に責任を取りたくない言質を文字で残したくないという検査者や組織の保身のためでしょうが、検査に携わる者として許されることではありません。医療も何もかも人が判断して行うことで100%はあり得ません。だからこそ、説明と合意が必要なのです。合意のための説明には文書があって当たり前ですし、当事者が写しを持ち帰るのも常識です。報告書を渡さないのがいかに非常識かということです。リスクを取らない検査者の言うことは信じられないと思います。

心理検査を依頼するときは、何のために検査をするのか、結果が出たら子どもにとってどんなメリットやデメリットがあるのかきちんと説明をしてくれる人かどうか判断して依頼しましょう。次回は、検査の実際について掲載します。

カリスマティックアダルト

「カリスマティックアダルト」という言葉は、ハーバード大学のロバート・ブルックス教授が、「ありのままの自分を受容し、課題をきちんと指摘してくれるカルスマティックアダルトとのかかわりが、人の人生を大きく変える」と示し、発達障害の子どもらの成長に欠かせない存在としてこの言葉は引用されています。辞書には、『よき理解者あるいは本人を常に無条件で受け入れてくれ、また本人が全幅の信頼を寄せている成人のことを「カリスマティック・アダルト(Charismatic adult)という。本人を心から信頼してくれるよき理解者こそが、その子どもの秘められた才能を引きおこす最も重要なキー・パーソンとなる』とあります。

カリスマティックアダルトと呼ばれる大人は、子どもには、多元的(色々)な知能があること、人間社会には、多様性が必要であることを知っています。そして、子どもにおける「正常」というのは神話のような作り事で、だれにもその子の能力を予測することなどできないと信じています。

子どものカリスマティックアダルトは、同性の家族が理想的ですが、他人でも構いません。おじいちゃんやおばあちゃん、学校の先生や近所の人、たまたま知り合った趣味の人。それは、子どもがなりたいと憧れる大人だから、カリスマティックアダルトになろうとしてなれるものではありません。それは、子どもが決めるのです。このことを勘違いしている大人は多いです。できる人が「カリスマ」ではないのです。「しっかり」している大人が良いわけでもありません。弱点があったり苦手があったりするから子どもが選ばないわけでもありません。ずばぬけて得意な分野があるというのはきっかけにはなりますが、あとは子どもが見抜くのです。

以下のことは十分条件ではないけれども必要条件かもしれません。それは、相手に共感することができる人。子どもにレッテルを貼らない人。子どもが自分の弱点を才能にする手助けができる人。「何が欠けているか」ではなく、今ある自分の素質をベースにした自分らしさを育てる手伝いをする人。大丈夫という感覚を与える人。子どもの怒りを沈めるために冷静な無関心を用いる人。子どもをぞんざいに扱ったり見下さない人。子どもの目線に立つことができる人。その子が内に秘めている価値を見いだすことができる人。子どもがうまくいかないとき、自分ならどう違ったやり方ができるか考えられる人。子どもから自分の評価を求め、真剣に話を聞くことができる人。


子どもたちは、自分はここに居場所があり、自分に選択権があり、自立していると感じ、つまり「自分はできる」と感じることを大切にしてくれると信じる人を、カリスマティックアダルトと決めるのです。

不登校ユーチューバー

「不登校は不幸じゃない」と“不登校ユーチューバー”として「ゆたぼん」(10歳)が注目を集めました。
https://binged.it/2OtmXOL
不登校児は年々増加しており、調査によると「少子化にもかかわらず、不登校の児童生徒数の割合はこの20年で1.5倍に増え、過去最多になっている」そうです。ゆたぼんは不登校になった理由として「周りの子たちがロボットに見えたから」などと説明していて、ゆたぼんを後押しする著名人も多数登場した。脳科学者の茂木健一郎氏はゆたぼんと対談し、「学校に行かなくても学ぶことは無限にできる。学校で身につく社会性がすべてではない。応援しています」とコメントします。ほかにも「勉強が嫌いならしなくてもいい。掛け算は計算機があるんだから、できるようになる必要はない」と発言する人もいます。世の中では“不登校でも構わない”という主張が結構あるようです。

しかし、文部科学省の「不登校経験者への追跡調査」によると、「行かなくてよかった」と肯定的評価をしているのは約1割で、約4割が「行けばよかった」と後悔しているのも事実です。不登校でもいいという世論はあるけど、所詮、他人の子どもだからではないでしょうか。自分の子が不登校になったらどうされるのでしょうと思います。不登校当事者と無関係な人が学校に行かなくていいと安易に語っているような気がします。

なんとなく面倒で学校に行かなくなった人の中には、家ではゲームしたり、まったり自由に過ごし、浪人して大学に入ることができたのですが、学力が伴わないのと締め切りも守れないので、先輩や同期の友人に助けられながら卒業したそうです。そして、不登校のときは一人でも平気だと思っていたけど、人間関係が重要だということを初めて学んだと言います。

他には、学生時代の友人はゼロで、ネットを通じた知り合いが数人いる程度で、結婚式に呼ばれることもないし、人付き合いの仕方がわからないから、彼女ともつき合ったこともないそうです。体育祭や修学旅行など学校生活の思い出もなにので、ドラマやマンガでそういうシーンを見ると羨ましくて胸が締めつけられるそうです。そして今、将来の孤独死を恐れながら暮らしている方もいます。

小学校や中学校は、子どもたちが基礎学力や社会性を身につける発達期なので、行かなくていいという根拠がありません。おそらく、行かなくてよいという発言には、様々な子どもに合わせられない今の学校への批判が含まれているのでしょうが、そういう発言は改革に後ろ向きな学校を免罪するだけで、学校が子どもをふるい分けする仕組みを強化するだけです。大人になって何をやるにしても、柔軟な発想を生み出すためのベースは基礎学力と多様な対人経験だと思います。高校生や大学生なのであれば、本人の選択に任せていいと思います。本人が無駄だと思う時間を浪費するより、学びたい知識や実用的な技術を身につけた方がよいと思うからです。